蝉の鳴き声がやけに大きく聞こえる。
今のぼくは宙に浮いているように思えた。
何もかも筋が通っていない。
前にあるのは無限に広がっている不安だけだった。
何時からか狂ってしまった・・狂ったのならそこから直せばいいのだが、今のぼくはどこから
直せばいいのかさえ分からないでいた。
茉莉が時計を見て立ち上がった。
「じゃ帰るね・・何時までもしょぼくれてないで。何とかなるよ」
「う・うん」
茉莉は荷物を持つと、ベットに紙袋に入った小説を置いた。
「あ・・」
ぼくは意識を失ってから今まで小説の事さえ忘れていた。
「ふふ・・ようやく思い出した?」
「う・うん・・・」
「この小説絡みで会ったのに・・変な方向にいっちゃたね」
ぼくは紙袋の中から原稿を取り出した。
茉莉にラブレターを・・その思いで書いた小説。
出版社のAさんにもA講師からも駄目を出された作品だった。
主人公が動かない・・・
そう言われたのにもかかわらず、この作品を茉莉に読んで欲しかった。
褒められるなんて思ってはいなかった。
ただ駄目を出された作品だったが、茉莉はどう思うかそれが聞きたかった。
ぼく自身どうして『主人公が動かない』のかまだ分かっていなかった。
ぼくはコピーではあったがその原稿用紙から目が離せなかった。
「やっぱりそれが一番の薬みたいだね。目がまともになってきたよ」
からかうようにそう言うと
「わたし的には好きだよ」
「え?」
「その小説・・難しい事は分からないけどね。」
ぼくは茉莉の顔を見た。
「ただ・・」
「た・ただ?」
「うーん・・・言い方が分からないんだけど、ほら主人公の友達がいるじゃない」
「う・うん」
「一人の女性に主人公とその友達が絡んでいくんだけど・・・ピエロ役の友達の方が私は好きだな」
ぼくは茉莉に言われるまで、主人公の友達の事は深く考えた事がなかった。
言ってみれば主人公の引き立て役として書いていた。
「と・友達の方・・・」
「だから・・私の言う事だから深く考えなくていいよ。私だったらピエロ君の方を選ぶと思うよ。」
「ら・ラスト?」
「うん・・何て言えばいいのかな。主人公はすごくいい人で強い人なんだけど面白みがないよ。人間味を感じないっていうのかな。・・・反対にピエロ君は弱いんだけど活き活きしてる。私、どんでん返しがあるのかな?って思って読んでたんだ」
ぼくの中で何かがうごめいた。
茉莉の言った事は『主人公が動かない』という事ともう少しのところでつながってるんじゃないのか・・・
それにしてもこの作品の設定で『弱い性格』と位置づけた主人公の友達が・・・
「・・・・・・・・・」
ぼくの頭の中は混乱していた。
茉莉の言った事をどのように考えればいいのだろう。
ぼくはもう少しで手が届きそうで届かないもどかしさを強く感じていた。
「はい、おしまい・・・だから言ったでしょ?私は推理小説ぐらいしか読まないんだから・・でも私の言ったことって感想になってる?」
ぼくは頷いた。
「そうかなぁ・・・でも同じ悩むんだったら小説の事で悩んだ方がいいわよ」
「あ・・う・うん」
「じゃ・・水曜日にね」
そう言って手を振ると、茉莉は振り返りもせずに病室を出て行った。
ぼくは暫く茉莉の出て行ったドアを見つめていた。
悩む事・・ほんとにそうだと思った。
悩まなければならない事はぼくには一つだけのはずだった。
また同じような大きな発作を起こすかもしれない。それはすごく不安だし怖かった。これからの生活で何らかのハンデになるかも知れなかった。しかし何も死ぬ訳ではない。
あるべき姿に戻らないと・・・
ぼくは小説を袋の中に戻した。
『設定から考え直してみよう・・・』
ぼくは紙袋をベッドサイドのテーブルに置くとゆっくりと身体を倒した。
ぼくの中ではまだ混乱が続いていた。
何も答えが出せないそして何も分からない深い闇の中で、大きな後悔と小さな光明が交差しながらぼくの胸の中を駆け巡っていた。


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