昨夜からの雨がようやく上がった。
雨上がりだというのにやけに蒸し暑かった。
どんよりとした空気は湿気をたっぷり含んで、それでなくても重い胸を鬱陶しくさせる。
発作を起こして倒れてからぼくは茉莉との約束を破ってあの薬を買っていた。
あの医院でもらった安定剤は効いてるのか効いてないのか分からなかったし、一回一錠という数はたまらなく怖かった。
身体を壊すかもしれないという不安。
茉莉との約束を破っていると言う後ろめたさ。
それらの思いはぼくを苦しめてはいたが、薬への依存の方が強かった。

茉莉との待ち合わせまでにまだ時間があった。
聖橋に着いてからぼくは何度も呼吸を整えていた。
それでも動悸はいつもより早い。
ただ大きく息を吸うたびに入ってくる匂いがいくらか気分を落ち着かせてくれていた。
よどんだ水の匂いの中に雨上がりの青葉の匂いが微かに混じっている。
ぼくは雨で増水し、茶色く濁った水面を見ていた。
雨が降ったせいなのか水草が岸辺に片寄り漂うことなくかたまっている。
ぼくは水草を見るとはなしに見ながら、この半年の自分を見つめていた。
東京に出てきてからぼくは何をしてきたんだろう。
駄目だしされたオリジナル作品を一つ書いただけ。
授業もぎりぎりしか出ていない。
ぼくが思い描いていた学生生活とは程遠い暮らしをしている。
東京に出てきた事が間違っているとは思いたくなかった。
ただ学生でありながらそうでない・・・そんな思いがぼくの中にいつもある、そんな気がしてならなかった。

うっすらと陽が射してくる。
それを待っていたかのように雨でひそめていいた蝉がいっせいに鳴き始めた。
夏はぼくの思いなど関係なくどっしりと腰を下ろしていた。

肩をたたかれぼくは我にかえった。
茉莉が笑っていた。
「待った?」
「そ・そんなには・・」
「そう・・・じゃ行こうか。一応紹介状をもらってきたよ」
「あ・あの産婦人科の先生?」
「うん・・一昨日店に遊びに来たから頼んでたんだ」
「ご・ご免・・」
「別に良いよ・・・アフターを付き合えば良いんだから」
「あ・アフター?」
「ああ、店が終わってから飲みに付き合うって事・・いつもの事だし、気にしなくてもいいよ」
「う・うん・・・」
ぼくは茉莉がホステスだという事を忘れていた。
今までぼくのまわりにはいない独特な雰囲気をもった女性。
そこに強く惹かれたのだが、虚飾の世界に生きている茉莉の事をぼくはほとんど知らなかった。
「どうかした?」
歩きながら茉莉がぼくの顔を見た。
「い・いや・・」
「びびってる?」
からかうように茉莉が言った。
「そ・そんなこ・事はないけど・・」
「平気だよ・・血を抜くだけだし」
「う・うん・・」
「やっぱりびびってる」
軽く茉莉が笑った。
「・・・め・面接も、あ・あるんやろ」
内科で血液を抜く事はそんなに心配ではなかった。
ただ神経科に行く事が気分を重くしていた。

交差点を渡る。
あの時に見た真っ赤なカンナが、薄日をうけてあざやかに咲いている。
しかしこの時、ぼくには夏色を誇るカンナの花が何故か儚げに見えた。


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