茉莉は一口水を飲んだ。
「あの時、T君が何したか覚えてる?」
「・・・な・何って・・・」
あの日は○○出版にいってAさんに会った日・・
あの時ぼくは何をしたんだろう。
「覚えてない?」
ぼくは茉莉の顔を見た。
「あなたね、橋の上から身を乗り出したのよ・・かなり深く・・」
ああ・・そこまで云われて思い出した。 身を乗り出して・・そう、淀んだ水、そして懐かしい匂い・・・
久々に感じた気持ちのいい風。
でもそれがどうしたのだろう。
その時に初めて茉莉に逢ったわけだが、話もせずに帰っている。
「思い出した?」
「う・うん・・・じ・じゃあ・み・見てたんだ」
「そう・・で、真似したの」
そう云って茉莉は小さく笑った。
「ま・真似?ど・どうして?」
「なんでだろ・・みんな急ぎ足で歩いてるじゃない?とくにあの時間は。だからあなたの行動がユニークで面白く見えたのかな」
「は・はぁ・・」
ぼくの中でかまえていた力がゆっくりと抜けてゆく。
「おかげでお店をさぼらずにすんだ。」
「え?」
「私でも少しは落ち込む時ってあるのよ。・・・真似してね、あの人どうしてこんな事したんだろうって・・それを考えてたら馬鹿馬鹿しくなって。落ち込んでた気分も何処かにいったわよ」
「あ・ああ・・・そ・そういう事か・・」
人をくったような言葉、小馬鹿にしたような言葉。 なのに不思議と腹がたたなかった。
反対にぼくの真似をしながら首を傾げている茉莉を想像すると可笑しくなってくる。
「笑わないって云ったじゃない」
ちょっと怒った茉莉の顔が少女のように見えた。
「でも、感謝してるんだ。あの時さぼってたら、ちょっと厄介な事になってたかも知れない。それに大事なお客さんと約束してたしね」
「そ・そう・・」
「だからもし逢えたらって・・・」
ぼくはどう言葉を返していいか分からなかった。
あの日、ぼくは気持ちの良い風の中で茉莉と逢い、もう一度逢いたいと何度も思った。
作品のヒントを得たのも茉莉の存在がぼくの中にあったから。
茉莉があの時、どんな状態だったのか知らなかったが、少なくともぼくの事を覚えていていてくれた事、そしてもう一度逢いたいと思っていてくれた事、それだけで十分嬉しかった。
「もういいでしょ」
会話が少し途切れ、茉莉は少し怒ったように云った。
「う・うん・・」
「じゃ、本題の小説の感想にいきますか」
おどけたように云った言葉に今度はぼくが緊張した。
治まっていた動悸がまた早くなる。
それは何時もと違い強い圧迫感と不安感をともなっていた。 ぼくは大きく息を吸うと少し下を向いて横を見た。
壁が近くに見える・・というより壁が迫ってきてるように思えた。 
更に動悸が早くなった時、ぼくはまるで石のようにその場に固まってしまった。
「どうしたの?」
心配そうにぼくを見た茉莉の顔がぼくの身体をすり抜けていく。
「T君?」
茉莉に発作を起こしてる時のぼくを見せたくなかった。
脂汗が額に滲んでくるのがはっきりとわかった。
急な発作だった。
いきなりぼくを襲った激しい圧迫感と不安感からぼくは走って店の外に逃げ出していた。 身体に高い熱があるような悪寒がはしった。
ぼくはポケットから薬を出すと、何錠かも確認せずに口の中にほりこんだ。
噛み砕き飲み込む。
ゲップが出る。 同時に飲み込んだ薬の苦味が上がってきた。
苦味が口じゅうに広がりぼくはそこに座り込んでいた。
何も考えられなかった。
ぼんやりとした意識の端に駆け寄って来る茉莉の姿があった。


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