ぼくは新宿の歩行者天国の一角につくられた喫茶店で茉莉を待っていた。
最近は病院の薬のおかげである程度狭い室内でも我慢できるようになっていたが、やはり外の方が落ち着いていられた。
明日にはJ大病院に行って入院の事を言いに行かなければいけない。
ぼくはN大に入院する事を決めていた。
自分の行ってる大学の付属病院ならE医師も嫌な顔はしないだろう。
一応昨日J大付属病院の受付に電話して診断書の事は頼んであった。
・・・二ヶ月か、けっこう長いなぁ・・・
ぼくは水を飲んで空を見上げた。
夏の青空が少しだけ変わってきたように思える。
・・・お盆も過ぎたしな・・・
何もしないまま季節が変わろうとしている。
透明感をました青空が胸に沁みた。
どれぐらい空を見ていたのだろう。
肩をたたかれてぼくは我にかえった。
少し日焼けした茉莉が立っていた。
前に言った通り茉莉は火傷跡を隠していなかった。
蝋のように白かった腕も健康そうな色になっている。
・・・二度目やから?・・・
ぼくには火傷跡がまったく気にならないのが不思議だった。

茉莉はアイスコーヒーを注文してからぼくを見た。
電話で入院しないといけない事は話してあった。
「大変だね」
「うん、最初はびっくりして・・・かなり落ち込んだけど・・仕方ないわ」
「でもどうしてN大病院なの?」
「・・・自分の行ってる大学の付属やし・・・」
「そう・・・」
「神経科のB先生は東京から離れた方が良いって言ってるんやけど・・・」
「東京から?」
「うん、東京にプレッシャーを感じてるんやて・・・意味がよう分からん」
「・・・・・・・・・」
ぼくは茉莉に真っ直ぐに見られて目を逸らせた。
何故かかなり動揺している。
「そ・それに・・・逃避するみたいやし」
「逃避?」
「う・うん」
「ねぇ、T君は何のために入院するの?」
「え?・・・何のためて・・・」
「治すのは身体だけなの?」
「い・いや・・・」
ぼくはこの時、茉莉が何を言いたいのかまったく分かっていなかった。
「神経も・・・」
「大事なのは両方だけど、点滴を受けて安静にしていれば身体は元に戻るわ。じゃあ神経の方は?」
「・・・・・・・・・」
「T君はほんとに神経の事考えてる?」
ぼくの中で何かが弾けた。
「あ・あたりまえやん・・・健康に見えてもすごくしんどいんや。治そ思てもどうしていいのか分からんし・・・。茉莉さんには分からへんねん、どれだけ辛いか!」
「分からないわよ。いい、神経の病気ってお腹が痛いとか熱があって苦しいとか、普通に私達が分かるレベルの病気じゃないのよ。それを理解して欲しいなんて、それはT君の我侭よ。」
「じゃあ・・分からへんのやったら神経の事は言われたくない」
茉莉が初めて大きく溜息をついた。
「ね、よく考えてよ。私が言ってるのは症状が分かるとかそんな事じゃないの」
「じゃ・・」
「最後まで聞いて。神経の病気に対して少なくともT君はがむしゃらじゃない。B先生が東京がプレッシャーになってるというんならどうしてそれを試さないの?」
「試すて・・・試して駄目やったら?そんな時間なんてあれへん」
「あるわよ。時間なんていくらでもある。無いなんて思ってるのはそれこそT君自身が神経症を軽く見てる証拠よ」
「無茶いうてる。ぼくにはそんなお金もないし・・・時間があるなんて言うんは余裕がある人だけやて」
「今度の事、私にはとてもいい機会だと思う。東京を離れるって事、私は賛成よ。そしてもう一度自分の事を見つめ直した方がいい」
ぼくは茉莉が東京の病院で入院する事を当たり前に賛成してくれると思っていた。
それなのに神経のためには東京を離れた方がいいと言う。
ぼくは何とか自分の気持ちを茉莉に訴えたかった。
何時の間にかぼくの中の怒りは消えていた。
ただ虚しさが広がって、無意味な焦りばかりが渦巻いている。
重い沈黙があった。
歩行者天国を歩く沢山の人波。
そしてざわめき。
そのすべてがぼくの中から消え、グラスの溶けかけた氷のかけらだけが眼に映っていた。


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